ファイブハンドレッドクラブの歴史は、昭和52年にまで遡ります。
当時の東急電鉄 五島昇社長の肝いりで、富士山南麓のこの地に新たなゴルフコース開発の命が下り、その指揮を任されたのが数々のゴルフ場の設計を手がけ、国内でもその作品に高い評価を得ていた宮澤長平氏でした。
まず宮澤氏が着手したのは、風光明媚な景観に恵まれたこの地をつぶさに調査すること。
富士南麓の地形構造はもちろん、調査は計画地各所からの眺望やその土質、植生、気候の特徴など多岐におよび、こうした緻密なデータを積み重ねることで、宮澤氏の脳裏に少しずつ新たなゴルフ場の展開ストーリーが固められていきました。
「背景に物語のあるゴルフ場は少ないです」と語るのは、若い頃から宮澤氏と共に数々のゴルフ場設計を担い、宮澤氏の直接の薫陶を受けた東急グリーンシステムの設計士 杉本昌治氏。
その仕事ぶりを間近で見続け、師に当たる宮澤氏の人となりを聞きました。
設計士 宮澤長平
設計に取り組む宮澤氏の姿勢を、杉本氏はこう語ります。
「とにかくストイックの一語。昼間は現地を歩き回って各所それぞれの情報を集めていき、深夜は打ち合わせ。やっと眠ったと思ったらまだ薄暗い早朝5時にはもうホテルの部屋で資料や設計図に向かっている、そんな姿を今もありありと思い出します」。
まだまだ限られたスポーツというイメージが強かったゴルフを、もっと多くの方に楽しんでもらいたい。そんな宮澤氏の熱い情熱は、当時としてはかなり斬新なものであり、ファイブハンドレッドクラブの構想に当たってもそれはけっして変わることはありませんでした。
宮澤氏がファイブハンドレッドクラブの基本コンセプトとしたのは『初級者から上級者までが、それぞれの実力に応じて楽しめるコースであること』。そして『プロの競技会の開催が可能なチャンピオンコースであること』。さらに『コースとしての品格や美しさを兼ね備えていること』。
とは言えこれを実現するためには、一般的なゴルフ場以上に高度で複雑な課題をひとつひとつクリアしていかねばなりません。
まず手始めの課題となるのが各ホールの戦略性の設定。多種多様な実力のプレーヤーがそのレベルに応じて楽しさを感じるためには、各ホールごとに実力に応じた複数の戦略ストーリーを組み込まねばなりません。
加えて、プロの大会を開催できるコースとするためには、さらに高レベルなタクティクスをも備える必要があるのです。
先に杉本氏が口にした「背景にストーリーのあるコース」の一面が、ここにあります。
富士南麓の壮大な景観や気候、敷地の広さ、そして東京からの距離など、ゴルフ場として理想的な環境を持つこの地には、たったひとつ大きなハードルが存在していました。それは高低差です。
プレーされる方はあまり意識されていないかと思いますが、実はファイブハンドレッドクラブは標高にして約150mもの高低差があります。宮澤氏がめざすコースを実現するためには、この高低差は非常に大きなハードル。そんな大きな標高差を感じさせることなく、すでに開設されていたスリーハンドレッドクラブよりも少し若い層にまで受け入れられるようなコースを創り上げることが、自身への挑戦そのものだったのです。
日々集め続けたファイブハンドレッドクラブの緻密な立地データの裏付けを基に、それでも宮澤氏がめざしたのは『できるだけ広く開放的な佇まいを持ち、段々畑状のコースであることを感じさせない落ち着いた雰囲気のゴルフ場』でした。
このためまずクラブハウスを境とし、低標高のエリアにアウトコース、高標高のエリアにインコースが展開するようコース全体をレイアウト。同時に各ホール単体がゆるやかな下りとなるように配慮し、上りのホールについては高低差を極力少なくし、高低差による難ホール化を避けています。
この宮澤氏の苦闘の積み重ねにより、皆様がことさらに高低差を意識せずにプレーを楽しめるコースの基礎ができあがったのです。
さらにこのベースレイアウトの上に、各ホールの戦略性を構築するため、自然の地形を生かしたアンジュレーション、ハザードとしての樹木、池、さらに戦略性を考えつくしたバンカーを精査・配置していきます。
グリーンは2面。オープン当初はベントグラスとコウライを時宜ごとに使い分けていました。(後にベント2面に変更)
コースの基本プランが徐々に固まり始めるのに平行して、宮澤氏のもうひとつの設計も動き始めます。それが景観と品格の確立です。
もともと園芸畑の出身であった宮澤氏。どの設計士よりも深い植物への造詣を持ち、また同時につねに新しい知識情報を得るための努力も欠かしませんでした。
「宮澤先生はよくコース内のいろんな場所にご自身の持ってきた数々の芝の苗を植えて、成育データを取っていましたね」と杉本氏。コース内の気温・湿度・日照の有無など様々な条件下で、つねに最適な芝の品種を探し続けていたと言います。
ファイブハンドレッドクラブの各ホールには、それぞれイメージカラーと植物が設定されているのをご存じでしょうか。あるホールは数種類の桜(ピンク)がテーマとなり、あるホールでは南国風の植栽が、また別のホールはメタセコイアの鮮やかな紅葉がテーマとなっているのですが、実はこれも宮澤氏の考えに基づいたもの。
各ホールごとの趣向によって、どんな季節にプレーしてもいつも異なる美しさと楽しさを感じられるように。そしてそれぞれの個性の競演によって、いつまでも愛されるゴルフクラブであるように、との想いが込められているのです。
こうして植栽の一つ一つにまで微細に及んでいた宮澤氏の目。高い理想を追うが故に一切の妥協を許さなかったその姿勢と想いは、コースを管理するグリーンキーパーたちの間に、今も世代を超えて脈々と語り継がれています。
宮澤氏の手によってプラン・デザインされ、今も多くのメンバーの方々に愛され続けているファイブハンドレッドクラブ。
オープンから30余年を経て、小さかった苗木たちも今やすっかり重厚感を増し、フィールドと美しく調和しながらそれぞれのホールの個性を物語るまでになっています。
今のファイブハンドレッドクラブを見て「コースとしてしっかり成熟してきている」と言う杉本氏は、宮澤氏が何よりも大切にしていた言葉があると語ります。
それが「ゴルフ場は50年後に評価されるものだ」との言葉。
宮澤氏はその開発当初から、「半世紀の時を重ねた後のファイブハッドレッドクラブの姿」をつねに念頭に置き、それをこのコースの完成形として掲げていたのだそうです。
30年以上の長い時を重ねて、その完成形のイメージへと今も少しずつ確かな歩みを続けているファイブハンドレッドクラブ。
『訪ねるごとプレーするごとに愛着が深まり、同時にいつも新たな発見に驚くコース』。
もしかすると、それが宮澤氏がコース内に織り込んだ「50年という時間のストーリー」そのものなのかもしれません。
ファイブハンドレッドクラブの歴史は、昭和52年にまで遡ります。
当時の東急電鉄 五島昇社長の肝いりで、富士山南麓のこの地に新たなゴルフコース開発の命が下り、その指揮を任されたのが数々のゴルフ場の設計を手がけ、国内でもその作品に高い評価を得ていた宮澤長平氏でした。
まず宮澤氏が着手したのは、風光明媚な景観に恵まれたこの地をつぶさに調査すること。
富士南麓の地形構造はもちろん、調査は計画地各所からの眺望やその土質、植生、気候の特徴など多岐におよび、こうした緻密なデータを積み重ねることで、宮澤氏の脳裏に少しずつ新たなゴルフ場の展開ストーリーが固められていきました。
「背景に物語のあるゴルフ場は少ないです」と語るのは、若い頃から宮澤氏と共に数々のゴルフ場設計を担い、宮澤氏の直接の薫陶を受けた東急グリーンシステムの設計士 杉本昌治氏。
その仕事ぶりを間近で見続け、師に当たる宮澤氏の人となりを聞きました。
設計士 宮澤長平
設計に取り組む宮澤氏の姿勢を、杉本氏はこう語ります。
「とにかくストイックの一語。昼間は現地を歩き回って各所それぞれの情報を集めていき、深夜は打ち合わせ。やっと眠ったと思ったらまだ薄暗い早朝5時にはもうホテルの部屋で資料や設計図に向かっている、そんな姿を今もありありと思い出します」。
まだまだ限られたスポーツというイメージが強かったゴルフを、もっと多くの方に楽しんでもらいたい。そんな宮澤氏の熱い情熱は、当時としてはかなり斬新なものであり、ファイブハンドレッドクラブの構想に当たってもそれはけっして変わることはありませんでした。
宮澤氏がファイブハンドレッドクラブの基本コンセプトとしたのは『初級者から上級者までが、それぞれの実力に応じて楽しめるコースであること』。そして『プロの競技会の開催が可能なチャンピオンコースであること』。さらに『コースとしての品格や美しさを兼ね備えていること』。
とは言えこれを実現するためには、一般的なゴルフ場以上に高度で複雑な課題をひとつひとつクリアしていかねばなりません。
まず手始めの課題となるのが各ホールの戦略性の設定。多種多様な実力のプレーヤーがそのレベルに応じて楽しさを感じるためには、各ホールごとに実力に応じた複数の戦略ストーリーを組み込まねばなりません。
加えて、プロの大会を開催できるコースとするためには、さらに高レベルなタクティクスをも備える必要があるのです。
先に杉本氏が口にした「背景にストーリーのあるコース」の一面が、ここにあります。
富士南麓の壮大な景観や気候、敷地の広さ、そして東京からの距離など、ゴルフ場として理想的な環境を持つこの地には、たったひとつ大きなハードルが存在していました。それは高低差です。
プレーされる方はあまり意識されていないかと思いますが、実はファイブハンドレッドクラブは標高にして約150mもの高低差があります。宮澤氏がめざすコースを実現するためには、この高低差は非常に大きなハードル。そんな大きな標高差を感じさせることなく、すでに開設されていたスリーハンドレッドクラブよりも少し若い層にまで受け入れられるようなコースを創り上げることが、自身への挑戦そのものだったのです。
日々集め続けたファイブハンドレッドクラブの緻密な立地データの裏付けを基に、それでも宮澤氏がめざしたのは『できるだけ広く開放的な佇まいを持ち、段々畑状のコースであることを感じさせない落ち着いた雰囲気のゴルフ場』でした。
このためまずクラブハウスを境とし、低標高のエリアにアウトコース、高標高のエリアにインコースが展開するようコース全体をレイアウト。同時に各ホール単体がゆるやかな下りとなるように配慮し、上りのホールについては高低差を極力少なくし、高低差による難ホール化を避けています。
この宮澤氏の苦闘の積み重ねにより、皆様がことさらに高低差を意識せずにプレーを楽しめるコースの基礎ができあがったのです。
さらにこのベースレイアウトの上に、各ホールの戦略性を構築するため、自然の地形を生かしたアンジュレーション、ハザードとしての樹木、池、さらに戦略性を考えつくしたバンカーを精査・配置していきます。
グリーンは2面。オープン当初はベントグラスとコウライを時宜ごとに使い分けていました。(後にベント2面に変更)
コースの基本プランが徐々に固まり始めるのに平行して、宮澤氏のもうひとつの設計も動き始めます。それが景観と品格の確立です。
もともと園芸畑の出身であった宮澤氏。どの設計士よりも深い植物への造詣を持ち、また同時につねに新しい知識情報を得るための努力も欠かしませんでした。
「宮澤先生はよくコース内のいろんな場所にご自身の持ってきた数々の芝の苗を植えて、成育データを取っていましたね」と杉本氏。コース内の気温・湿度・日照の有無など様々な条件下で、つねに最適な芝の品種を探し続けていたと言います。
ファイブハンドレッドクラブの各ホールには、それぞれイメージカラーと植物が設定されているのをご存じでしょうか。あるホールは数種類の桜(ピンク)がテーマとなり、あるホールでは南国風の植栽が、また別のホールはメタセコイアの鮮やかな紅葉がテーマとなっているのですが、実はこれも宮澤氏の考えに基づいたもの。
各ホールごとの趣向によって、どんな季節にプレーしてもいつも異なる美しさと楽しさを感じられるように。そしてそれぞれの個性の競演によって、いつまでも愛されるゴルフクラブであるように、との想いが込められているのです。
こうして植栽の一つ一つにまで微細に及んでいた宮澤氏の目。高い理想を追うが故に一切の妥協を許さなかったその姿勢と想いは、コースを管理するグリーンキーパーたちの間に、今も世代を超えて脈々と語り継がれています。
宮澤氏の手によってプラン・デザインされ、今も多くのメンバーの方々に愛され続けているファイブハンドレッドクラブ。
オープンから30余年を経て、小さかった苗木たちも今やすっかり重厚感を増し、フィールドと美しく調和しながらそれぞれのホールの個性を物語るまでになっています。
今のファイブハンドレッドクラブを見て「コースとしてしっかり成熟してきている」と言う杉本氏は、宮澤氏が何よりも大切にしていた言葉があると語ります。
それが「ゴルフ場は50年後に評価されるものだ」との言葉。
宮澤氏はその開発当初から、「半世紀の時を重ねた後のファイブハッドレッドクラブの姿」をつねに念頭に置き、それをこのコースの完成形として掲げていたのだそうです。
30年以上の長い時を重ねて、その完成形のイメージへと今も少しずつ確かな歩みを続けているファイブハンドレッドクラブ。
『訪ねるごとプレーするごとに愛着が深まり、同時にいつも新たな発見に驚くコース』。
もしかすると、それが宮澤氏がコース内に織り込んだ「50年という時間のストーリー」そのものなのかもしれません。